土生弦碩のお墓 [史跡を訪ねて]
築地本願寺
案内板と案内板の間の墓は 赤穂義士(間新六)の供養墓
土生玄碩の墓は確かに昭和40年代には あったよう、でも今は 築地本願寺にはなく 和田堀廟所の
土生家の墓に合葬されている。
多くの方が 東京都教育委員会の案内板により 顕彰碑を 墓とした写真を ブログ等にのせている。
歩いてみました東京の街
http://masanori1919.web.fc2.com/03_Chuo/03-00/03_00.htm
このホームページの白黒写真は昭和42年撮影とあり そこには墓、案内板、碑が写されていました。
境内の雰囲気が いかにも 昭和です。築地川もまだ顕在だったのですね。
築地本願寺和田堀廟所
本堂
土生家の墓
嘉永元年8月17日が土生玄碩の亡くなられた日
炎の眼科医ー土生弦碩http://www.kimurasentaro.com/note_doc/no012.html
眼科クリニックのホームページです。土生玄碩のことが詳しく記されています。
九条武子墓
余計なお世話と云われそうですが 九条良致・武子夫妻のお墓だったのですね。
樋口一葉墓
?十年前に来た時は もっと古い感じだったのですが。。
最近納骨があったようで 墓として現役?なのですね。
ここの案内板には 佃墓域とか、直参墓域とかあって
関東大震災後に 築地から 移転したそうですが
江戸を感じました。
江戸幕府の塩硝蔵
幕臣となった大久保大和こと近藤勇は 塩硝蔵を素通りして 甲府に向かいます。
生地の調布・上石原あたりでは 大名気取りでとか云われたようです。
私は 塩硝蔵に手をつけなかったということは この時 既に 近藤は『覚悟』していたのではと
思うのですが いかがお考えでしょうか。
ここも 和田堀廟所も塩硝蔵跡地 (明治大学和泉校舎)
上は中央道 下は20号線(甲州街道) 向こうは明大和泉校舎
案内板と案内板の間の墓は 赤穂義士(間新六)の供養墓
土生玄碩の墓は確かに昭和40年代には あったよう、でも今は 築地本願寺にはなく 和田堀廟所の
土生家の墓に合葬されている。
多くの方が 東京都教育委員会の案内板により 顕彰碑を 墓とした写真を ブログ等にのせている。
歩いてみました東京の街
http://masanori1919.web.fc2.com/03_Chuo/03-00/03_00.htm
このホームページの白黒写真は昭和42年撮影とあり そこには墓、案内板、碑が写されていました。
境内の雰囲気が いかにも 昭和です。築地川もまだ顕在だったのですね。
築地本願寺和田堀廟所
本堂
土生家の墓
嘉永元年8月17日が土生玄碩の亡くなられた日
炎の眼科医ー土生弦碩http://www.kimurasentaro.com/note_doc/no012.html
眼科クリニックのホームページです。土生玄碩のことが詳しく記されています。
九条武子墓
余計なお世話と云われそうですが 九条良致・武子夫妻のお墓だったのですね。
樋口一葉墓
?十年前に来た時は もっと古い感じだったのですが。。
最近納骨があったようで 墓として現役?なのですね。
ここの案内板には 佃墓域とか、直参墓域とかあって
関東大震災後に 築地から 移転したそうですが
江戸を感じました。
江戸幕府の塩硝蔵
幕臣となった大久保大和こと近藤勇は 塩硝蔵を素通りして 甲府に向かいます。
生地の調布・上石原あたりでは 大名気取りでとか云われたようです。
私は 塩硝蔵に手をつけなかったということは この時 既に 近藤は『覚悟』していたのではと
思うのですが いかがお考えでしょうか。
ここも 和田堀廟所も塩硝蔵跡地 (明治大学和泉校舎)
上は中央道 下は20号線(甲州街道) 向こうは明大和泉校舎
2009-12-23 23:22
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コメント(2)
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こんばんは
〝炎の眼科医〟読みました。
こういった話を読んで、私がいつも興味を惹かれるのは・・・
主として歩きが移動手段の中心だった時代の人々の暮らしです。
一般の人はこの時代、どんな感じで暮らしていたんでしょうか
ねぇ(*^ー^)/
by Green (2009-12-24 22:13)
1872年(明治5年)品川~横浜に鉄道が開業される以前の年月のほうが
それからより遥かに長いのに その140年の変化の速さに
ただただ 驚くばかりです。
by 風の子 (2009-12-25 22:33)