雪の西山荘 [史跡を訪ねて]
雪の舞う中 訪れましたので とても静謐な雰囲気が味わえました...
丸太だけの椚門 中央遠くの門は裏門 お成り道と称される道は左に廻り込み 遠回りしています。
″黄門様″の書斎の窓
三畳間でした、落ち着くかもしれません
″黄門様″がおいでになったころの規模は 現在の3倍あったそうです。
まわりに 家臣の屋敷もあり 質素であってもそれなりの隠居所だったのですね。
″黄門様ご直筆″
不老池
安積澹泊(格さん)の名前が見当たらないですね。
格さんや助さんが 桜田門外の変や 天狗党の乱に
つながっていくと思うと...............
西山公園
おにしやまこうえん と読むそうです。
″義公廟″があるからかしら?
右 義公廟
昭和16年(1941)、光圀公の遺徳を
忍んで建立されたそうです。
中には光圀公が生母の菩提を弔う
ために書写した法華経1部10巻を
納める宝塔等が納められている
とのことです。
谷中散歩(二) ♡ 少し前の建物たち ♡ ☆史跡散歩Ⅲ☆ [史跡を訪ねて]
いろいろなところに まだまだ こういう木造の建物はあるかもしれません。
東京では 震災や戦災の被害を受けなかった建物も たぶんバブルのころに
建て替わったのではないでしょうか ^。^?
大正時代以降の建物が多いと いうことですが 山手線の内側に 震災や 戦災からものがれ
これだけ残っているというのが不思議なくらいです。
出桁(だしげた)造りの木造住宅は 消防法により 東京では もう建てることができません。
今でも 残していく 努力をしていただいてる皆様に 心から 感謝したいと思います。
吉田屋酒店 (台東区立下町風俗資料館付設展示場)
下町風俗資料館
明治43年に建てられ、昭和61年まで谷中6丁目で営業していた「吉田屋酒店」を移築。
江戸時代の商家の様式を佳く残しているといわれている。出桁(だしげた)が美しいですね。
吉田屋酒店もお向かいさん
西隣り カヤバ珈琲店 昭和 13年(1938)創業
岡埜栄泉 上野広小路の初租岡埜栄泉総本舗ののれん分けで創業100年
愛玉子 愛玉子とは台湾でしか取れない果実。その果汁を寒天状に固め、
シロップやかき氷をかけたり、あんみつに入れたりして食べる。谷中名物。
SCAI THE BATHHOUSE もと『柏湯』を利用したギャラリー、空いている時
訪れた方は幸運みたいです
みかどパン店
三叉路からきたみかどという名前
鉢に植わっていたヒマラヤ杉が
大きく大きくなってしまって。。
みかどパン店の
名前を有名にしたのかしら
??????????
間間間(さんけんま) 大正8年築の町屋
3間の間口がある「店空間」を活かそうと名付けられた
週末はカフェ、平日はお稽古場等として活用されている
すぺーす小倉屋 江戸期(1847)の質屋店舗建物と大正期(1917)の土蔵を活用
存続するためにアートスペースとして平成5年より使われている
中野屋佃煮店 俳優の中尾彬さんがテレビ番組で紹介した焼きうなぎの大和煮は
100グラムで¥1600..........買う勇気が 必要ですね^^
翠屋 3代100年続く竹細工屋さん。お茶席で使うような花籠などで有名。
乱歩 名前のとおり江戸川乱歩好きのご主人が営む喫茶店
丁字屋 元藍染川だった へび道を行くと明治28年創業の
染物屋さん。 昔は藍染川沿いに 何件もの染物屋さんがあったことでしょう......
谷中散歩(一)❁ 天王寺界隈 ❁ ☆史跡散歩Ⅲ☆ [史跡を訪ねて]
1月23日(土)
江戸歴史散歩の会に参加しました
日暮里駅→
紅葉坂→天王寺→花重(老舗花屋 国の登録文化財)→谷中霊園
→パティシエ イナムラショウゾウ→浄名院→旧吉田屋→愛玉子(台湾のデザート)
→岡埜栄泉(焼き菓子)→SCAI THE BATHHOUSE→自性院→みかどパン→日本美術院
→瑞輪寺→西光寺→間間間(さんけんま)→小倉屋(3階建ての蔵)→功徳林寺→観音寺
→初音小路→谷中せんべい→中野屋 //昼食//谷中銀座→経王寺→養福寺→浄光寺
→諏方神社→富士見坂→六阿弥陀道→蛍坂→岡倉天心記念公園→全生庵→大円寺
→乱歩(喫茶店)→いせ辰→笑吉→藍染橋(枇杷橋)跡→へび道→元藍染川→根津神社
→地下鉄根津駅解散
日暮里駅南口は 待ち合わせのグループも多く混雑していました。
さすが京成の駅舎は 成田APに直結するせいか 新しいのですが
JRは 新旧 入り混じって 面白いですね。
紅葉坂 かつては紅葉の名所だったそうですが‥ 今日は 落ち葉が2枚 ^^
護国山天王寺
もと日蓮宗・長曜山感應寺尊重院と称していたが 元禄12年(1699)日蓮宗不受不施派は邪宗であるとして江戸幕府により弾圧を受け天台宗に改宗させられる。日蓮宗に戻そうという動きがあったため 天保4年(1833)現在の護国山天王寺と改号する。そして彰義隊の兵火により本坊、五重塔以外焼失。(--〆)
近代的な山門並んで江戸の薫り?
継ぎ目のない 1本の木で作った横木(梁?)が並ぶ山門の天井 見た目より凝っています
山門前
毘沙門堂(谷中七福神) 雪吊 江戸の雪吊は装飾的嗜好で作られたそうです
銅像釈迦如来坐像 元禄3年(1690)建立
日蓮宗感應寺(天王寺旧称)時代最終期に作られました。
冬枯れの沙羅双樹
天王寺五重塔跡
最初の塔は、明和9年(1772)目黒行人坂の大火により焼失、その後寛政3年(1791)に再建された。
関東一の高さの五重塔であったが、明治41年東京市に寄贈された後、昭和32 年(1957)心中のための
放火で焼失した。
白梅も咲き始め 風もない天気に誘われてか
谷中は 思ったより 人が多く 楽しそうに そろそろ ぞろぞろ 歩いていました。
大きなカメラを 持った人も多く 写真スポットとしての人気も 覗えた
天王寺から さくら通りを 長谷川一夫や高橋お伝の墓を 横目で見ながら
慶喜公墓所を目指します。
江戸歴史散歩の会に参加しました
日暮里駅→
紅葉坂→天王寺→花重(老舗花屋 国の登録文化財)→谷中霊園
→パティシエ イナムラショウゾウ→浄名院→旧吉田屋→愛玉子(台湾のデザート)
→岡埜栄泉(焼き菓子)→SCAI THE BATHHOUSE→自性院→みかどパン→日本美術院
→瑞輪寺→西光寺→間間間(さんけんま)→小倉屋(3階建ての蔵)→功徳林寺→観音寺
→初音小路→谷中せんべい→中野屋 //昼食//谷中銀座→経王寺→養福寺→浄光寺
→諏方神社→富士見坂→六阿弥陀道→蛍坂→岡倉天心記念公園→全生庵→大円寺
→乱歩(喫茶店)→いせ辰→笑吉→藍染橋(枇杷橋)跡→へび道→元藍染川→根津神社
→地下鉄根津駅解散
日暮里駅南口は 待ち合わせのグループも多く混雑していました。
さすが京成の駅舎は 成田APに直結するせいか 新しいのですが
JRは 新旧 入り混じって 面白いですね。
紅葉坂 かつては紅葉の名所だったそうですが‥ 今日は 落ち葉が2枚 ^^
護国山天王寺
もと日蓮宗・長曜山感應寺尊重院と称していたが 元禄12年(1699)日蓮宗不受不施派は邪宗であるとして江戸幕府により弾圧を受け天台宗に改宗させられる。日蓮宗に戻そうという動きがあったため 天保4年(1833)現在の護国山天王寺と改号する。そして彰義隊の兵火により本坊、五重塔以外焼失。(--〆)
近代的な山門並んで江戸の薫り?
継ぎ目のない 1本の木で作った横木(梁?)が並ぶ山門の天井 見た目より凝っています
山門前
毘沙門堂(谷中七福神) 雪吊 江戸の雪吊は装飾的嗜好で作られたそうです
銅像釈迦如来坐像 元禄3年(1690)建立
日蓮宗感應寺(天王寺旧称)時代最終期に作られました。
冬枯れの沙羅双樹
天王寺五重塔跡
最初の塔は、明和9年(1772)目黒行人坂の大火により焼失、その後寛政3年(1791)に再建された。
関東一の高さの五重塔であったが、明治41年東京市に寄贈された後、昭和32 年(1957)心中のための
放火で焼失した。
白梅も咲き始め 風もない天気に誘われてか
谷中は 思ったより 人が多く 楽しそうに そろそろ ぞろぞろ 歩いていました。
大きなカメラを 持った人も多く 写真スポットとしての人気も 覗えた
天王寺から さくら通りを 長谷川一夫や高橋お伝の墓を 横目で見ながら
慶喜公墓所を目指します。
ご近所の 砦 [史跡を訪ねて]
いつも散歩している玉川上水から 100mちょっとしか離れて
いないところに 《砦跡》 があったなんて ついこの間まで
知りませんでした。
その名を 牟礼砦 といいます。
世田谷の烏山砦と同様に深大寺城(国指定史跡)の上杉氏に
対峙する為に、小田原北條方の北條綱種(高橋氏)により築か
れた砦です。
砦跡の牟礼神明社境内は、この辺りでは一番の高台で
仙川方面からも神田川方面からも 小高い丘となっています。
北西側の三鷹台駅前通りの切り通しは空堀の跡という見方もあるようです。
三鷹台駅は神田川の縁にあるので ″名前に偽りあり″ 一番低い所のようです。
地名(&住居表示)として三鷹台はないようです。
牟礼は資料で確認される三鷹市で最も古い地名だそうです。
現在 井の頭と住居表示されている町名も'65年までは牟礼だったので
今より広い地域が牟礼だったと思われます。
牟礼神明社
境内にある牟礼郷土史研究会による由緒書によると、天文六年(1537)綱種は、高番山(現在地)に
陣内鎮護のために芝・飯倉神明宮のご分霊を勧請し祀ったとありました。
井の頭弁財天への道標を兼ねて牟礼村の巳待講が建てた常夜灯 嘉永3年(1850)建立
以前は高井戸から連雀への道と井の頭道の分岐する角にあった(現在の牟礼2丁目交差点付近)
巳待講 月待の一つであり古くから講中の作られていたことが伺われる。 蚕を飼っている人が秋季、巳の日の晩に集り掛軸を拝み、直会をした。巳の日は福神である弁財天の 縁日であり、弁財天信仰の盛んな地域は、近くの弁財天に参詣する。弁財天は仏教の天部の神が、 もと音楽の神のち財宝を与える福神として崇められたもので、中世になって急速に信仰を深め、とりわけ 真言宗寺院や修験が伝播、布教に関与した。十二真支の巳は蛇に対する信仰と関与し、弁財天との 習合に際しては巳=蛇は弁財天の使わしめだと考えられていた。一方、巳は脱皮、変成の思想があり、 巳の日には特別な厄払いの信仰があった。また、養蚕の盛んな土地では蚕を食べる鼠避けとして蛇神は養蚕 農家の守護神であった。
牟礼の里公園 運が良ければ 富士が見れるというのですが。。
牟礼神明社と同じ丘の一角ですので、かつては。。。と思われます。